【アンネ・フランクの格言&名言集】『アンネの日記』著者の心に響く言葉たち

 

アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)

1929年6月12日 ~ 1945年3月上旬

 

 

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アンネ・フランクのプロフィール

アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フラン)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女です。

ドイツ国のフランクフルト・アム・マインに生まれたが、ナチスドイツの政権掌握後、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命しました。

しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領され、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、一家は、隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされました。

隠れ家での生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けました。

1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家の住人は全員がナチス強制収容所へと移送されました。
収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落としました。

隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていました。隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、隠れ家で一人、戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡されました。

オットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意しました。この日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーになりました。

当時アムステルダム・ザウト地区は開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていました。フランク一家もザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場のアパートの三階で暮らしていました。

ドイツ軍占領下の生活は、1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止されました。1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務づけられました。ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになりました。

1944年9月3日、アンネは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に乗せられました。移送中のアンネは、ときどき小窓によじのぼって外の光景を眺めていたそうです。この移送でアウシュヴィッツへ送られてきた1,019人のうち、549人が労働不能と判断されてガス室(毒ガスで人を殺傷する部屋)送りとなりました。

女子供はビルケナウ収容所の中にある女子収容施設へ入れられ、アウシュヴィッツでは男子も女子も丸刈りにしていたため、アンネも短髪から丸刈りにされました。またアウシュヴィッツでは囚人の左腕に囚人ナンバーの刺青を入れていました。

後日アンネたちはベルゲン・ベルゼンへの移送され移動は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます弱っていいきました。到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は恐ろしく不潔な収容所で病が大流行していました。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所でした、この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落とすことになります。

引用元:Wikipedia 一部編集

 

 

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アンネ・フランクの格言&名言集

薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず。

15歳の少女が既に笑うことの効能に気づいていたんですね。

もし、その境遇が気づかせたのだとしたら皮肉なものです。

 

あなたの周りにいまだ残されている、すべての美しいもののことを考え、楽しい気持ちでいましょう。

この言葉を日記に残したとき、いったいどんな状況に置かれていたのか・・・。

心の励み、より所となるのが自身の心の中だけだったとしたら、あまりに悲しいですね。

 

幸せな人は誰でも、他の人をも幸せにするでしょう。

歪むことのない純粋な気持ちに頭が下がります。

 

私の想像の翼は、閉じ込められても閉じ込められても、はばたき続けるの。

世が世なら、普通に希望に胸を膨らませていたであろう10代の女の子です。

そのたくましい想像力を今になって目にする者に、共感と教訓を植え付けるかのようです。

 

太陽の光と雲ひとつない青空があって、それを眺めていられる限り、どうして悲しくなれるというの?

この言葉をアンネ・フランクその人が残したことを、私は驚愕と敬意とともに、ただただ想像するしかないのです。

 

本当に他人の人柄がわかるのは、その人と大喧嘩したときだということです。

そのときこそ、そしてそのとき初めて、その人の真の人柄が判断できるんです。

互いが感情や本音をむき出しにするのは、確かにこんな状況下なのでしょうね。

 

私達は皆、幸せになることを目的に生きています。

私たちの人生は一人ひとり違うけれど、されど皆同じなのです。

不幸になるために生きる人はいないでしょう。確かにこれは、万人の共通認識だと思います。

 

 

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与えることで貧しくなった人は、いまだかつて一人もいません。

与えられるものって、なにも金銭や物だけじゃないんですよね。

 

怠慢は魅力的に見えるけど、満足感を与えてくれるのは働くこと。

楽をして儲けることができるなら、それを羨む人も多いことでしょう。

でも、満足感、やり甲斐、達成感といった心の充足を得られるのは、やっぱり身体を動かして働くことなのでしょうね。

 

なんと素晴らしいことでしょう!

世界を良くすることを始めるのに、誰も一瞬ですら待つ必要なんてないんです。

読めば読むほど深い言葉だと思います・・・。

世界を良くしたい! そんな積極的な思いがストレートに伝わって来るようで、何かと躊躇する自分が恥ずかしいような気持ちにさせられます。

 

母親が子供たちに一切を話してやらない限り、子供は少しずついろんな知識を聞きかじり、そしてそれは間違った知識に違いないのです。

子供が周囲からの間違った情報に左右される前に、親は正しい知識や考え方をしっかりと伝える義務があるのですね。

 

大人の方が今の私たちよりずっとつらい目に遭っているというのは、本当ですか。

いや、私はそうは思いません。

これは、何を誰に向けて記した言葉なのか、想像するだけでいたたまれない気持ちになります。

 

親は子供に助言し導くことはできるけど、最終的な人格形成は子ども自身の手に委ねられている。

まるで心理学の専門家や教育者が言うような言葉です。

15歳で生涯を閉じた少女が残した言葉だと考えると、関心すると言うより、なんだか切ない心境になります。

 

私が私として生きることを、許して欲しい。

何の罪もないのに、一個人の偏見だけを理由に自由を奪われた少女の言葉です。

現代日本では多くの人にとって無縁の言葉かも知れませんが、何かしらの理由で同じ思いを背負っている人は存在することでしょう。世界に目を向ければ尚さらです。

こんな言葉を口にさせる状況は、決してあってはならないはずです。

 

 

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