【萩原朔太郎の格言&名言集】日本近代詩の父の心に響く言葉たち

幸福人とは、

過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、

不幸人とは、

それの反対を記憶している人々である

「絶望の逃走」

「記憶している」と言うより、敢えて良いことだけを脳内インプットに残すことのできる人って、確かに幸せだと想像します。

逆に言えば、辛い記憶だけを消去できたなら、どんなに幸せだろうかと・・・。

萩原朔太郎氏が言っていることは理解できる気がするけど、人の記憶はそうそう単純なものではないですよね。そこが問題。

 

愛は、その愛するものを独占しようと願っている。

しかしながら、愛はそれに成功してしまった後では、競争もなく、嫉妬もなく、退屈で冷めやすいものに変わってくる。

「虚妄の正義-結婚と女性」より

「愛」と「恋」の違いって、往々にして比較されるものだと思うのですが、ここに言う「愛」とは、私が思うところの「恋」ではないかと・・・。

ただ、そう考えた場合でも、誰かに対する恋慕の情が成就した場合、その後はもしかしたら競争も嫉妬もなく退屈な状況になるのかも知れませんが、それもまた個人によって異なる心情ではないでしょうか。

この言葉が恋愛について語ったものであるとすれば、それは万人に当てはまるものではないと思うのです。

個人的には、願わくば「愛」とは、無条件に与えようとする慈しみの情であって欲しいと思ったりします。一般的には、あくまでも一般的には、母親が子供に与える理屈抜きの「無償の愛」と呼ばれるものが、その最たるものだと感じます。

 

愛を求める心は、悲しい長い疲れの後にきたる。

それはなつかしい、大きな海のような感情である。

その程度はともかく、自分に愛情を感じてくれる誰かが必要だと、切に思う状況ってありますよね。

 

人は新しく生きるために、絶えず告別せねばならない。

すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。

何も考えずとも、自然の成り行きで誰もが経験することだと思いますが、あらためて記憶をたどると、けっこうしみじみと考えさせられます。

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

「極光」より

萩原朔太郎には、教会に出入りして神や信仰、罪などの問題に悩んだ時期があります。ただ、これがその頃の言葉なのかは判然としません。

もしかしたら、当時の自身の心情を教会で懺悔する人々の姿に見出し、そこに救いの手とも思える極光(オーロラ)を想像したのではないでしょうか。

 

人生ではアマチュアであることが、また1つの職業である。

趣味だろうと何だろうと、同じ1つのことに打ち込むのであれば、それはある意味「職業」と呼べるのかも知れません。

それが予期せぬ機会にでも花開けば、れっきとした職業にも発展するのでしょう。

 

非常な善人と、非常な悪人とは、感じがほとんど同じです。

すごい善人とすごい悪人とは、同じような印象である・・・これは何とも奥が深い分析であります。

おそらく、善の道であろうと悪の道であろうと、その人が持つ覚悟は同様のレベルにあるのでしょう。その方向性は違っていても、覚悟の決まった人の佇まいには共通のものがあるのは確かなように思います。

 

 

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教育は猿を人間にしない。

ただ見かけの上で、人間によく似た様子をあたえる。

猿が教育されればされるほど、益々滑稽なものに見えてくる。

「虚妄の正義」より

猿まわしのお猿さんのことを言っているのでしょうか・・・。

いや、きっと何かを猿になぞらえて語っているのでしょうが、この断片的な文章だけでは判然としませんね。掲載しておきながら申し訳ないです・・・。

 

最も親しき友人というものは、常に兄弟のように退屈である。

「虚妄の正義」より

それだけ遠慮なく接すことができる、気のおけない相手であるということでしょう。

 

民衆の正義とは、

富豪や、資産家や、貴族や、その他の幸福なものに対して、

利己的な嫉妬を感ずることである。

「虚妄の正義-社会と文明」より

往々にして裕福で幸せそうな地位にいる者を羨んだり、妬んだりする傾向を持つ民衆のことを皮肉っているのでしょうか・・・。

 

父は永遠に悲壮である。

朔太郎自身の本音を吐露した言葉なのでしょう。

妻子からは良き夫であり良き父親であることを望まれ、世間に対しても自慢のできる成功者であることを期待され、それでいて妻子とは心を通わすことができず、家庭内では何かとけむたがられる存在・・・。

とかくそのような環境にいる父という立場は、確かに悲壮なものかも知れません。

 

すべての場合を通じて、恋愛は忍耐である。

どのような状況にあろうとも、恋愛には忍耐が必要です。

 

五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。

若葉の頃の清々しい風が、「私」の心身に崇高な覚悟のようなものを与えてくれる・・・そんな意味でしょうか。

 

 

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結婚の利益は、女性の本質を知ることであり、

結婚の損失は、女性への幻滅を知ることである。

「絶望の逃走」より

あくまでも夫側から見た場合の見解であって、きっと妻もまた夫に対して似たような思いを抱くことでしょうね。

 

自由とは、

自分が「自由である」と信ずるところの、一つの幻覚にすぎないのである。

「虚妄の正義-社会と文明」より

確かにそうかも知れませんね。

でも、幻覚であろうと思い込みであろうと、自分が自由であると感じられる状況に居られるなら、それはそれで素晴らしいことではないでしょうか。

 

都会の生活は非人情であり、

そしてそれ故に、遥かに奥床しい高貴の道徳に適っている。

「虚妄の正義-社会と文明」より

道徳、すなわち社会的な善意というのは、誰かに認められたいとか褒められたいといった欲求が絡むと別物になってしまう気がします。

そんな本来の善意を育むには、人情味のない都会って案外適合しているのかも知れません。

 

羞恥心は塩のようなものである。

それは微妙な問題に味を付け、情緒をひとしお深くする。

羞恥心は、人の欲望を抑制することもあるし、恥じらいはちょっとした行為に奥ゆかしさを加える味にもなります。

人が照れたり恥ずかしがったりする姿を見て不快になることってあまり無いように思います。

ただ、折に触れて羞恥心を忘れて愚かな行為に及ぶ場合もあるわけで、誰かに咎められて初めて恥を知ることもあります。

また逆に、羞恥心は理性を保つと同時に、良かれと思った行いであろうと躊躇させることがあります。これを乗り越えて行動した先に、実は道徳があるようにも思います。

 

音楽の演奏者や、劇の俳優たちは技術家である。彼らは芸術家ではない。

なぜといって彼らは真の「創作」を持っていないじゃないか。

「新しき欲情」より

今では、作詞作曲も自ら行うアーティストは一般的だし、自ら監督・脚本・主演を務める俳優さんも大勢いますよね。

なので、この言葉をそのまま受け取るのではなく、他人の創造をなぞるだけの行為は芸術とは呼ばない、自ら創作することが芸術なのだと・・・。

だから何事においても、新しいことを創造する工夫があると良いよね、くらいに解釈すれば良いのかな・・・?

 

 

※ 出典元や参考文献等が不明のものは、現在調査中のため表記されておりませんが、詳細がわかり次第追記および分類を施して参ります。

※ なお、名言や格言の中には、当サイト独自の編集(省略、意訳、要約等)を施している場合がありますことをご承知おきくださいませ。

 

 

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