これまた難しい言葉ですね。
辛いけど生きて行くべき理由って、家族や関わり合いのある人々の存在なくしては説明しづらいように感じます。
でも、そんな単純なことを言っているわけではないんでしょうね(苦笑)。
中島氏は、世間の多くの人々があたり前のように思っている価値観を徹底的に否定することで知られています。
「どうせ全ては無に還るのだ」というニヒリズム思想が根底にあるようですが、そこを追究して行くとこのような境地に辿り着くのでしょうか。
確かに、生への目的も価値観も根底から違ってくるでしょうね。
中島氏は、「何からも縛られることなく自由に好きなことをやれば良い」と説いています。どうせ死んだら無になるのだからと・・・。
自分の出生や環境、立場、責任、役割、義務といった周囲からの束縛を受けることなく、気の向いたことだけを片っ端からやってみることで、本当に自分がしたいことを見つけられるのかも知れないと思うと、それができる状況にある人って決して多くはないのだろうな・・・。
本当は、協調性などほとんどなくていいのに、
わが国ではこれがないと「生きていけない」と思い込まされてしまう。
ここには、すさまじいマインドコントロールが作用している。
「本当は、協調性などほとんどなくていい」その言葉自体にキョトンとさせられる私は、やはり常識に囚われ過ぎているということでしょうか・・・。
とくに私が滑稽なほど本末転倒だと思うのは、余暇を仕事のための手段と見なす考えである。
「仕事に備えて充電するために」休暇を取るのであれば、それはやはりひとつの仕事である。
仕事に追われる現代社会では、多くの人々に見られる状況ですよね。
その仕事が中島氏の言う「自分がしたいこと」なら何の問題もないと思うのですが、そうではないのに仕事に振り回されている人がほとんどなんでしょう。
友人に「休日は徹底的に遊ぶ」という奴がいて、私は「疲れが取れないだろうに・・・」と身体が心配になったりするのですが、彼の考え方は案外正しいのかも知れません。
私はいずれ消えるであろう。そして、私は何も失わないであろう。
なぜなら、「あとに残した世界」は完全に無だからであり、
せいぜいそこには「あたかもあるかのように」言葉によって捏造された精巧な仮象が舞っているだけだからである。
自分は死んでしまえば無になり、自分が無になれば後の世の中もまた無(意味)であるという考え方みたいです。
だからこそ、常識に囚われた価値観や自分を縛る悩みなどは捨て去って、自由に好きなことをやれば良いのだと・・・。
そんな生き方をしたら返って生きづらい気がするのは、私に個性を打ち消すほどの常識がこびりついているからでしょうか。なんだかちょっとつまらないですね。
※ 出典元や参考文献等が不明のものは、現在調査中のため表記されておりませんが、詳細がわかり次第追記および分類を施して参ります。
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