西郷 隆盛(さいごう たかもり)
1828年1月23日 ~ 1877年9月24日
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西郷隆盛のプロフィール
西郷隆盛は、日本の武士(薩摩藩士)であり、軍人、政治家としての肩書を持ちます。
身長は五尺九寸八分(約181cm)、体重は二十九貫(約109kg)あったとされ、後に鹿児島に巡業に来た大相撲の横綱が美術館に陳列された西郷の陸軍大将大礼服を試着してみると、少しだぶつくほどだったと言われています。
鹿児島弁による「西郷どん(せごどん)」という呼称がありますが、これには「西郷殿」という目上の者に対する敬意と共に親しみのニュアンスも込められていると言われ、最も敬意を表した呼び方としては「南洲翁」があります。
幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更されたと伝えられ、号は南洲(なんしゅう)です。なお、一時は西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門、大島吉之助などとも名乗ったとされます。
西郷は薩摩藩の下級武士でしたが、藩主で当代一の開明派大名と謳われた島津斉彬の目にとまり抜擢され、その影響を強く受けたと言われています
斉彬の急死によって失脚し、奄美大島に流されるも復帰。ところが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び流罪を被って沖永良部島に・・・。
しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで再び復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降、薩長同盟の成立や王政復古の成功と活躍し、戊辰戦争を巧みに主導しました。
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した“江戸無血開城”のエピソードでも知られています。
薩摩に帰郷した西郷は、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職し、後には陸軍大将・近衛都督を兼務しました。
明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案するものの、帰国した大久保らと対立する事態となり、これが政変に発展して江藤新平、板垣退助らとともに下野します。
再び鹿児島に戻った西郷は、私学校で教育に専念しますが、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争を指揮する立場となり、敗れて城山で自刃しました。
死後十数年を経て名誉を回復された西郷は、位階は贈正三位を授かり、継嗣の寅太郎は侯爵となっています。
西郷隆盛の写真は、本人が明治天皇に「自分の写真は無い」と明言しているとおり、今もまだ見つかっていません。
全ての肖像画や銅像の基になったとされるエドアルド・キヨッソーネ作の肖像画は、顔の上半分が実弟の西郷従道、下半分が従弟の大山巌のそれを合成することで再現したもので、親戚関係者の考証を得て完成されています。
上野公園に建立された銅像については、妻である西郷糸子が「似ていない」と指摘したとも言われています。
更に生前の西郷と面識のあった板垣退助もこの銅像に不満を感じたそうで、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせています。
描かれた二点のうち一点は大山厳、田中光顕、明治天皇の天覧を経て、西郷糸子の手に渡り、もう一点は西郷家から大山厳を経て宮内省に渡りました。
この絵は1910年に日韓併合記念として写真版で印刷発行されたもの(冒頭の画像参照)が岡山県立記録資料館に所蔵されていますが、現物は所在が不明となっているそうです。
また、西郷屋敷の隣家に住み幼少時代に可愛がられたという肥後直熊は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に当時の思い出を基にした肖像画を描いています。
この絵は真実の西郷に最もよく似ていると評価されたことで知られています。
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西郷隆盛の格言&名言集
晋どん、もうここらでよか。
西南戦争で被弾した西郷隆盛が自刃する際、同行していた別府晋介に最後に言ったとされる言葉です。
覚悟を決めた西郷は、襟を正して正座すると東の方向へ深く奉拝した後、別府に介錯を頼んだそうです。
人を相手にせず天を相手にせよ。
天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
人を相手にしないで天を相手にするように心がけなさい。
天を相手にするように自分の力を尽くし、人を咎めることなどせずに自分の行き届かない部分こそを反省するべきだ、というような意味です。
彼ら貧民の子弟こそ、真の国家の柱石である。
一生懸命に働く貧しい人々こそが真の国家の柱石だと言っています。
自分たちが生活を送れるのも、こうした人々あってのことだと心に刻んでいたのですね。
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。
「西郷南洲遺訓」に収められた言葉です。
命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬというような人物は処理に困るものである。このような手に負えない人物でなければ、困難を共にして、国家の大業を成し遂げることはできない。
志が高いがために、名誉やお金に釣られることもない。そんな人物は都合よく操ることが難しいけれど、国家の大業を成し遂げるためには、そういう人物こそが苦難を共にするのに相応しいというわけです。
政治で特に大切なことは、
教育文化を盛んにし、
軍備を充実させ、
農業を奨励するという三つである。
まるで現代社会の様子を予見したかのような言葉ですね。
(税制は)上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。
西郷隆盛は、国民の税負担を少なくすることが国力を上げることに繋がると言っています。
国の予算が足りなくなろうとも税率は上げず、上に立つ者が損をすれば良く、下の者を虐げることがあってはダメだと。
実はこれには続きがあって、予算が足りないからと言って悪知恵を働かして巧みに税金を取り立てようと企てる役人が褒められるが、そうやって庶民にばかり負担を掛けようとすれば自然とずるくなってお上を騙そうとする者が増えるし、官民が敵対する状況に陥るばかりだ、と言っています。
今の日本政府にも聞かせてやりたい言葉です。
正論では革命をおこせない。
革命をおこすものは僻論(へきろん)である。
「正論」とは道理に適った正しい理屈、「僻論」とはその真逆であって、筋の通らない理屈を指す言葉です。
新しいことを始めようとすると、いつだって否定論者からは責められるものなんですよね。でも、通説や常識が必ずしも正しいことであるとは限らないわけです。
天動説を否定して地動説を説いたガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられたという話を思い出します。
常識にとらわれていては、進歩は期待できないものなのでしょう。
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志を貫くためには、玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志を曲げて瓦となってまで、生きながらえるのは恥とする。
志を貫くためには命がけで戦え、他者と同じように右に倣えで保身に走るのは恥だ、という意味でしょう。
ここには武士道の精神も活きているのだと思いますが、それはやはり西郷隆盛の信念にも通じるのでしょう。
人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。
人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。
公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。
みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。
それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。
こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。
しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。
これはすごく大切な考え方だと思います。
昨今で言うなら、リニアモーターカーが必要だと言うなら、反対意見に対して、どうして必要なのかという理由をもっと熱心に伝えるべきだったのでは・・・?
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。
だがそこには人間としての「道」がなければならない。
われ外出するとき、路上多くの貧人に逢うが、彼らはみなあくせくして政府に税金を納めている。
われは却って為すことなく安泰に生活している。これ実に痛心の至りである。
一生懸命に働く貧しい人々の血税によって賄われている自身の立場を、西郷は本気で心苦しく思っていたみたいですね。
素知らぬ顔で胡座をかいている現代の政治家や役人に聞かせてやりたい・・・いや、聞かせても響くことは無いのでしょう。
われらの子供で誰がもっとも愚かであるか。
売りに出た田畑の購入をすすめられた妻の糸子が、このことを相談した時に西郷が発したとされる言葉です。
返答に困っている糸子に西郷は更に問います。
「どの子がもっとも魂が入らぬか」
西郷は、自分たち家族が安泰に生活して行けるのは庶民の課税のお陰であり、それを思うと外出先でも人々の顔を見る度に心苦しいと言います。
庶民こそ国家の柱石であって、そのお陰で暮らしている自分たちが美衣美食美居を望むのは論外であると。
その後日、西郷は自分の言わんとしたことを説明したようです。
もしも我が子が愚鈍であったり魂の入らない者だとしたら田畑を買っておくべき必要もあるだろうが、幸いにも人並みの子らだし、成長すれば相応に自活の道を立てるだろうから、田畑を買うべき理由は少しもないのだと諭したんだそうです。
このことが下記の言葉にも繋がっているのでしょう。
我が家の遺法、人知るや否や、児孫のために美田を買はず。
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