カーネル・サンダース(Colonel Sanders)
1890年9月9日 ~ 1980年12月16日
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カーネル・サンダースのプロフィール
カーネル・サンダースの本名は、ハーランド・デーヴィッド・サンダースで、アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者です。
「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍の階級(大佐)でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)で、日本では「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着しています。
「カーネル・サンダース」ことハーランド・デーヴィッド・サンダース(以下、サンダース)は、1890年にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで生まれました。
父親はサンダースが6歳のときに亡くなり、工場で働く母親によってサンダースとその弟妹は育てられました。
サンダースは、10歳から農場で働き、14歳で学校を辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働きました。
1906年、16歳のときに年齢を詐称して陸軍に入隊し、キューバで勤務することになります。
1907年に除隊した後は、様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々としました。
30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドを経営するようになりますが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験しています。
1930年、サンダースはケンタッキー州のノースコービンに移り住み、ガソリンスタンドの経営を始めましたが、客から言われた一言から、ガソリンスタンドの一角に6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」をオープンします。
そこでは、ガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ね、州の南北を貫く幹線道路に面した店は繁盛し、規模を拡大していきます。
1935年には「州の料理への貢献」が評価されて、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられたのでした。
そして、「サンダース・カフェ」は、1937年にはモーテルを併設した142席のレストランに成長しました。
1939年には店舗が火災に見舞われるなどの災難もありましたが、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建しました。
現在、この店舗は博物館 (Harland Sanders Cafe and Museum) となり、アメリカ合衆国国家歴史登録財となっています。
「サンダース・カフェ」の目玉商品はフライドチキンでした。
1939年に導入された圧力釜を用いた「オリジナル・フライドチキン」の製法は、以後70年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれています。
「サンダース・カフェ」に掲げられた旧ロゴマーク。サンダースは文字通りKFCの「顔」となりました。
サンダースが、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えて歩合を得るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めたのは、1952年で、ユタ州ソルトレイク市のピート・ハーマン (Pete Harman) が最初のフランチャイジーとなり、フランチャイズ一号店が開業します。
「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)というブランド名は、このときハーマンによって提案されたものでした。
1955年、コービンの町外れを通過する州間高速道路(州間高速道路75号線)が開通すると、車と人の流れは変わり、国道沿いのサンダース・カフェには客が入らなくなります。
サンダースは負債の返済の為に店を手放すことになりました。
それ以後、サンダースは、フランチャイズビジネスの普及に努め、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回ります。
1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げました。
1964年、74歳のサンダースは、KFCの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して経営の第一線から退きましたが、以後も “public spokesman for the company”として働きました。
サンダースは製法が守られているかを確認するために世界各国に広がった店舗(1979年には6000店舗を数えた)を見て回りました。 1970年にKFCが進出した日本には、1972年10月、1978年6月、1980年5月の3度訪れています。
1980年5月に訪れた日本はサンダースにとって最後の訪問国となりました。
1980年6月に急性白血病を発症し、肺炎を併発、同年12月16日に90歳で逝去しました。
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カーネル・サンダースの格言&名言集
日本の(KFCの)味が一番気に入っている。
私の考えていた通りのやり方を守り、理想のかたちを受け継いでくれている。
日本人の愚直なまでの真面目さが認められた・・・ということでしょうか。
私がやったことなど、誰にもできる事だ。
ポイントはただ一つ。心から『やろう』と思ったかどうかである。
心が思わないことは、絶対に実現できない。
深い信念があったから実行に移せたんでしょうね。
私はただ2つのルールを守ってきただけだ。
「できることはすべてやれ」
「やるなら最善を尽くせ」
これが何かを達成するための唯一の方法なのではないだろうか。
どちらも、とかく中途半端になりがちなことですね。
無意識かも知れないけれど、そこにはきっと「妥協」の二文字があるんでしょう。
最後に息を引き取るまで、夕暮れは暗闇にはなりません。
60歳を過ぎてからフランチャイズを始め、70歳で成功したとされるカーネル・サンダースならではの言葉ですね。
走るのを止めた人間は、そこから一気に坂を転げ落ちるものだ。
成功するには全力で進み続けることが必要なのでしょう。
世間では、正式に学校に通った者たちだけが、“教育された人間” だと思われているようですが、決してそうではないと思います。
相当な成功を収めた人たちの中にも、中学校さえ出ていない人たちがたくさんいることを私自身知っているからです。
現代の学校って、生きるのに必要な知識や能力を授けてくれる場所じゃないんですよね。
どんなに勉強ができたとしても、いわゆるお利口さんであるとは限らないのです。
(お金を自分のために貯めておこう?)
そんな発想はありません。
~中略~ 私が生きているうちに、できる限りの寄付をしたいのです。
そのほうが私のお金がどのように使われるかしっかり把握できますし、私の善意の使われ方を見届けられるのもまた喜びなのです。
頭が下がります・・・。
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自らが与えたものが手に入る。
賢者や識者の方々は皆、「欲しければ与えよ」と言います。
何歳であろうと、根性があって、やる気と信念があるならば大丈夫。
それがすべてにおいて最も大きな要素です。
これまたカーネル・サンダースが言うからこそ響く言葉ですね。
掲げた目的に向かって正直であり、心から他人に尽くし、きちんとした商品を売っているなら、すでにあなたは “進み続ける価値のあるもの” を築き上げているのです。
信念と真心が商売人にとって重要な要素なのですね。
勤勉さを忘れ、自分の失敗について世間を責めて過ちを正当化しようとしてはいけません。
自らの失敗を素直に認めるからこそ、その経験を活かして次のステップに進めるんですよね。
人は、自分が “やれる” と思うか “やりたい” と思う分だけ前進できる。
信念と情熱、とでも言うんでしょうか。人を突き動かすのはいつでも強い気持ちなんですね。
“勤勉さ” というものは、私がこれまで「体にいい」と見聞きした強壮剤やらビタミン剤よりも、最も体に効き目があるものだと思っています。
目の前のことに一生懸命に取り組む姿勢が、きっと心身を強く保ってくれるんでしょう。
諦めて失速しない限り、じつはまったく新しい人生をそこから築くことが可能なのです。
諦めたらそこで試合終了・・・これって生きる上でのいろいろな場面に当てはまりますね。
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